「人の目が気になる」という心のブレーキ

悩み解決・夢実現のための潜在能力開発教室

090-2801-7631

〒759-6303 山口県下関市豊浦町宇賀7840-1

営業時間:9:00〜19:00(メール受付は24時間)
定休日:火曜日

bg_lv

「人の目が気になる」という心のブレーキ

自己啓発の学びを始めた人が陥りやすい罠からの脱却法

2015/08/23 「人の目が気になる」という心のブレーキ

思う事が思う様に人前で表現出来ない、思う事が思う様に言えないというのも、潜在的に何かがブレーキとして働いています。
シリーズ「意識の時代が来る!」はその最適なエクササイズになっています。
 
釈迦は「自己を島とし自己を頼りとして他人を頼りとせず、ダンマを島としダンマを頼りとして他のモノを頼りとせずにいなさい」と言っています。島とは流されないモノ、ダンマとは法則、つまり原理原則です。
 
つまり、自分と原理原則を信じて他のモノに流されない様にしなさいと言っている訳です。
日本では、この釈迦の教えが「自灯明・法灯明」として知られています。これはとても大切な考え方です。
 
そう考える事によって、人は責任を引き受け勇気や自信を培い、揺るがない人間へと成長します。
しかし、この教えに反して「人の目が気になる」と言うのはまるで逆、その判断基準が他人に在るという事です。「自分で判断してはいけません・判断基準を他人の意見にしなさい」となっているのです。
 
とんでもない事ですね。
 
何かしたいと考えても、人から可笑しな目で見られるかもしれないと考えると行動出来ません。
それでは、自分に自信を持つ事も出来なくなってしまいます。何故、そうなっているのでしょう?
 
それは、社会システムの何者かによって決められている規範、つまり「これは良い事・これは悪い事」が人々をその様に条件付けるのです。規範とは、必ずしも善悪を正しく指し示すものではありません。
しかし、規範が決められると、人々はそれに縛られる様になります。
 
エンプロイーに常識から外れてもらっては困るからです。それは何故でしょうか?
現代社会は、人々は他の人に自分より抜きん出て欲しくはないと誰しもが考えています。
それを更に高所から俯瞰してみましょう。
 
そうすると、そこには「独立して自ら思索」等せず、言われた事だけに忠実に従う様にと、支配的立場に立ちたいとする者からのバイアスが、社会全体に掛かっているのが判ります。
でも何故、それが「人の目」なのでしょうか?
 
ところで「人の目が気になる」と言うのは、一種の罪悪感です。
支配者は、支配の力を振るいたいが為に、人々の自発性に対して自らの内からブレーキが掛かる様にと、巧みに罪悪感を持つ様に仕向けて来ます。
 
人に罪悪感を持たせるならば、その人を縮こまらせる事が出来るので、微妙にコントロール出来る様になるからです。「人に罪悪感を持たせる」というのは、人を操る技法の一種なのです。
親も子供に「そんな事をしたら人が笑う」と言って自発的に何かしようとする事に対して、罪悪感を植え付け、子供をコントロールしようとします。自発的な芽は、この段階でどんどん刈り取られて行きます。
しかし、いつも「人の目が気になる」と如何なるでしょう?
 
「こんな事を言ったら人から何と言われるだろう?こんな事をして失敗したら人はどう思うだろう?」とそれが気になって、自由な発想は持てなくなります。それは思考の牢獄です。
 
そして今では、誰に頼る事も無く、自分でせっせと「自発的な何か」を刈り取る様になってしまいました。
本当は、人は他人の事など一々かまってなどいやしません。
だから本当は何も気にする必要など無いのです。
しかしこの感覚に囚われてしまった人は、有りもしない恐怖に怯える訳です。
それは支配的立場に立つ者にとっては好都合です。その人は自発性を失うからです。
また、人の意見にいつも自分を委ねる事によって、責任を引き受けなくても済みます。
それは、責任を引き受けなくて済めば楽だと捉え違えている感覚も内在しているからです。
 
こうして、多くの人は「人の目」を気にして、自分で考え自分で判断するという思考力を徐々に失い弱体化して行きます。
この「人の目が気になる」様にされてしまう事は「独立して自ら思索出来る能力」を奪うモノです。
そうすると、あらゆる判断を他人に委ねる隷属的な人間が出来上がります。
 
「裸の王様」に出てくる素直な子供の様に、自分からは「王様は裸だ」と言えなくなるのです。
それでいいのか、深く考察しましょう。
「人の目が気になる」と言うのは(独立して自ら思索出来なくなる思考の牢獄です。
また、成長したくて何かを学んでいても、これが判断基準として落とし込まれている限りは、それに同類親和の法則が働いて、原理原則は落とし込まれません。
 
同類親和の法則は、既に在るモノと比べて「異質だ」として、為になる筈の原理原則を無意識に弾き 返してしまうからです。
判断基準を自分自身と原理原則に置くか、それとも人の意見、しかも自分の偏った主観による人の意見に置くか、それはまるで逆です。
潜在意識は基本的に、同類のモノは受け付けますが、異質だと受け付けません。
そして潜在意識は、自分にとっての損得など考えもしません。
そうすると、せっかく学んだ心構え知識の総てが「知っているレベル」の知識段階で留まってしまいます。
いつまで経っても、それが落とし込まれて自動化する事はありません。何故学んだ事が、多くの人はなかなか身に付かないのかと言うと、この様な原理が無意識レベルで働いているのです。
 
この様に、人々をその牢獄から出られなくなる様に、人間の弱点を利用し条件付ける様な偏りが、世には存在しているのです。
その為に世の支配的立場に在る者は、自分達の都合で勝手に規範を決めるのです。
 
「人の目が気になる」と言うのは、真実を理解していない事より引き起こされている症状の一つです。
「人の目が気になる」人もいれば、全く人の目など気にしない人もいます。
「人の目が気になる」人は、人の目など全く気にしない人が「何故そうなのか」、そしてどっちが得かを考えてみましょう。
 
真実を知れば、ルソーの次の言葉「人間は真実を知ったならば、それを理解した全ての人が同じ判断をし行動する。その判断は必ず正しい判断である。」という言葉が成就します。
 
人は、真実を知ったならば、「人の目が気になる」という洗脳されて植え付けられた間違った感覚を解除する事が出来ます。そして、責任は引き受けた方が遥かに得する事も解って来ます。
人は独立自尊の存在として在るべきです。
 
そういう人は、自分を大切にする為、「人は人、自分は自分。言いたい奴には言わせておけ。」と考えているのです。そしてその言葉が落とし込まれて自動化しています。
 
だからと言って、我儘奔放な訳ではありません。 「自分は自分」という処に、何が有ってもその責任は自分が選択した結果であるという自覚が有るからです。そして、それは自信を培うものです。
 
故にこういうタイプの人は、自分自身の人生のマイウェイを堂々と歩める様になるのです。
こういうタイプは思考の牢獄にはいません。人の目という錯覚から解放されていて思考は自由です。
そういう人生観は、普段何気なく繰り返している言葉によって作られて来ます。
繰り返す言葉の力に気づいて下さい。
 
マスターからの熱きメッセージ!
これからの潜在能力開花法。そのプロセスの全体像より☆
 

TOP